ロック激動のイヤー、1969年にタイムスリップ!私の1969

「1969年あなたはどこにいた?」特集を思いついたのはこの年が歴史的に見ても、音楽の変遷を見ても世界規模で大変重要と考えたからです。多くの既存の価値観が崩れ去り、新しい何かが生まれた瞬間といってもいいと思います。そういうダイナミックな時代を生きたわたしと同世代、または少し先輩の方々からそれは実のところなんだったのかを直接聞いてみたいと思いました。なぜなら多くのジャーナリズムが語ってきた表層的なものとは違い、その時代の生き証人から、実際の個々の体験を伺ったほうがよりその時代がリアルで、かつスリルに満ちたものとして浮かび上がってくるからです。今回はわたしの長い友人、音楽評論家の萩原健太さんの登場です。萩原さんとわたしは大学のクラブ活動で出会った間柄で早いもので35年の付き合いになりますが、萩原さんの洋楽黎明期の話をほとんど聞いたことがありませんでした。この特集で萩原さんの「洋楽新人」時代の実態が明らかになります!(宮治淳一)
■ 第1回 植村和紀さん [前編] [後編]
■ 第2回 萩原健太さん [前編] [後編]
■ 第3回 シー・ユー・チェンさん [前編] [後編]
■ 第4回 森川欣信さん [前編] [後編]

カセット・テレコとトランジスタ・ラジオで始まった音楽生活

宮治淳一: 今日は1969年限定ということでいろいろお話を聞かせてください。日本における69年の洋楽シーンの本当のところを、ご自身の体験を交えて語っていただきたいなと。まず、最初の質問は、毎回決まっているんですが「69年、あなたはどこにいましたか?」

萩原健太: 千葉県松戸市です。松戸市立第一中学校の中2、ブラスバンド部でトロンボーンを吹いてましたね。洋楽にのめり込むようになったのは前年の68年。中学1年のとき、ちょっと入院してた時期がありまして、とにかく暇で、病室で音楽を聴きまくったというのがキッカケ。病気のときって、親がいうことを聞いてくれるじゃない?

宮治: 「バナナがほしい」といえばスッとくれたんだよね。

萩原: そう。「このタイミングだ!」と思い、すかさずカセット・テレコがほしいと(笑)。オープン・リールはあったんだけど、当時発売されたばかりのカセットっていうのがほしいと、思い切って頼んでみたところ、買ってくれたんです。そのカセット・テレコとトランジスタ・ラジオで音楽の世界にハマっちゃったね。

宮治: あの当時はカセット・テープといっても、曲が入っているものはほとんど売っていなかったから、わざわざ生テープに録音したんですよね?

萩原: ラジオの前にこうマイクを立てたりしてね。で、入院している時は本当に暇なのでラジオを聴くしかなかった。大部屋だから、イヤホンでね。その時期に、初めて洋楽にどっぷり浸かったわけ。もちろん、それまでも聴いてはいたけど、そんなに洋楽一辺倒という感じじゃなかったかな。

これは貴重!1968年4月千葉県松戸市立第一中学校入学時の萩原健太氏
これは貴重!1968年4月千葉県松戸市立第一中学校入学時の萩原健太氏

宮治: 何が流行っていたんですか?

萩原: 入院した頃は、ヴァニラ・ファッジの「Keep Me Hanging On」やメリー・ホプキンの「Those Were The Days(邦題:悲しき天使)」「Goodbye」とか。その入院がなかったら、俺の人生は違っていたんだろうなって(笑)。

宮治: 入院で病気が始まったと(笑)。

萩原: 入院で病気になっちゃうの(笑)?

宮治: タチの悪い、不治の病に(笑)。中1の入院でハマって、1969年に中2になりましたと。

日本と海外のロックシーンの差がもっとも開いていた69年

萩原: アメリカでウッドストックがあったという情報は、『ヤング720』っていうTBSで朝7時20分からやっている番組で初めて知りましたね。司会の加藤和彦さんが紹介していました。あと『ミュージック・ライフ』誌でウッドストックについての記事が載っていまして、「あ、こんなにすごいのがあったんだ」と。その記事では、歴史に残るイベントであったと紹介しつつも、終演後のゴミがすごかったとか、フリーセックス状態になっていたとか…わりとネガティブな面が強調された記事だったと覚えています。ロックが混沌として、メチャクチャになっちゃったんだなっていう印象を、69年当時は抱いてましたね。

宮治: 69年当時を思い出すと、ウッドストックの情報ってまさにいまいったようなものしかなくって、実際に映像とか音はまったくなかった。だから、とてつもないフェスティバルがアメリカであったという情報が実態を伴って入ってきたのはずっとあとのことですよね。

萩原: 1年後に映画が公開される時になって、ようやく全貌がわかりました。アメリカってやっぱりすごいなと思ったのは、テン・イヤーズ・アフターが演奏しているとき、速いテンポの曲なのに、オーディエンス全員がきっちり裏打ちで手拍子しているところね。日本人なんて裏打ちとか知らなかったから。そういえば、『ヤング720』でいまだに忘れられないのが、レッド・ツェッペリンがデビューした時、「Good Times Bad Times」と「Communication Breakdown」の映像が流れたんだけど、その時に司会の土居まさるさんの発言が面白くってね。「Communication Breakdown」でジョン・ボーナムがスティックをブンブン回すんだよ。それを見ていた土居まさるが「ああいうスタンドプレーはいけませんね」って(笑)。したら解説の人が「いや、ああやって自由に叩いてる間も足は動いているんですよ」って。ダイナミックに叩きながら足でリズムキープする人がいなかった時代だからね。「彼はなんてすごいんだ!」とびっくり(笑)。テン・イヤーズ・アフターで観衆が裏打ちの手拍子しているだけでも感動しちゃうんだからね。まぁ、しょうがないですよ。

宮治: 今とは隔世の感がありますよね。日本はその当時、GSとか普通に盛り上がってたじゃないですか。日本と海外のロックシーンの差がもっとも開いているような時期だったのかなって気がしますよね。

萩原: そうだね。日本人で、その頃から洋楽をわかった風に聴いていたかのように振舞ってるやつがいたら、だいたい嘘だと思って間違いないね(笑)。その頃って情報は本当に限られていたし、新譜も米英でリリースされてから3ヶ月くらいしないと日本に入ってこなかったからね。しかも輸入盤は高くて買えなかったから。渋谷のヤマハで、エア・メール(航空便)が当時3,000円くらいしたんじゃないかな。船便にならないと安くならないんだよね。船便で2,000円くらいだよね。今と逆で、輸入盤の方が高いっていう状況。

宮治: 輸入盤を持っている人はすごいですよ、リスペクトされていましたよね。

萩原: ディスクユニオンができるまでは、国内盤より輸入盤は高かったんだから。

宮治: 輸入盤を扱っていたのは、日楽(日本楽器=ヤマハ)だね。もう神々しく置いてあるの。

萩原: その頃のエア・メール盤には、これ見よがしに外国のポストカードみたいなラインが入ったカードがジャケットの右肩のところにつけてあったよね。で、壁にかかっていて3,200円とか書いてあるの。

宮治: 今思うと「何でそんなに高いの?」って。モノは一緒なんだけれど、どうやって来たかで値段が違うっていう(笑)。

萩原: 当時の日本盤はだいたい2,000円。あまりCDの値段は変わっていないんだよね。当時の状況を考えると、すごく高い買い物だったから、買ったら聴きまくるっていうね。だから、何となく「あぁ失敗したかな…」なんて思っても、いや俺が間違っているんだと(笑)。認めたくないのね。

宮治: 絶対にいいはずなんだって、自分を無理やり変えるのね。

萩原: 好きになるまで聴く、みたいなね。情報自体が少ないから、テレビの番組でやっていたり、雑誌に載ってた情報は、くまなく吸収してたよね。そんな中のひとつの情報としてウッドストックもあったっていう感じ。

宮治: それとテレビ番組では『ビートポップス』ですよね。

萩原: 土曜日の午後3時に、大橋巨泉さん、星加ルミ子さんと木崎義二さんと3人で司会をしてた洋楽のカウントダウン番組。もちろん、映像なんてないので、基本的にはアメリカの番組のスタイルと同じで、レコードをかけて、その音に合わせて皆が踊っているっていう。

「ALL NIGHT NIPPON VIVA YOUNG」17号・1969年12月31日発行(ニッポン放送刊)
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巻頭のウッドストック関連記事「真夏の大狂乱!」の見出しが当時の評価を物語る
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レッド・ツェッペリン/グッド・タイムズ・バッド・タイムズ

宮治: ハーフのタレントの小山ルミとか、ルックスのいい女の子が踊ってるんですよね。

萩原: あとはジャケットを映してるだけとかね。今どき、CS放送でもそんなのないだろうっていう。でも、それが我々にとっては一番生々しい洋楽体験で、そういうもので情報を仕入れて、月に1枚買えればいい方だからね。アルバムなんて、すごい吟味して買ってましたよ。そんな時に、3枚組でサントラの『Woodstock』が出たんだけど、これは買えないよって感じだったよね?

宮治: ジョージ・ハリスンの『All Things Must Pass』(アナログ3枚組)といっしょだよね。最初からお手上げ状態(笑)。「My Sweet Lord」のシングル盤を買って、全部買った気持ちになるっていう。

萩原: そうそう。「My Sweet Lord」も尺が長いので、得した気分に(笑)。

中古レコード屋、ロック喫茶巡りに明け暮れた高校、大学時代

宮治淳一: 中学時代、レコードは松戸で買っていたんですか?

萩原健太: 松戸の伊藤楽器というところ。学校のたて笛とかを売っているようなお店なんですが、レコードも置いてあって、そこでしか買えなかったのよ。その後、中学2、3年になると松戸にそごうができて、その中に新星堂が入ってたの。それでもう少し幅広くなったかな。ディスクユニオンに行くようになったのは高校生の時、1年か2年くらい。エア・メール盤を、すごいなぁと思いながら眺めてた。中学の時は完全に自分の街だけの世界だったけど、高校になってからは広がったね。僕は早稲田高校に通ってまして、大手町に出て、そこから東西線で行くっていうルートだったのね。そうすると新お茶の水駅を通るんで、ディスクユニオンにはしょっちゅう行けるように(笑)。70年代に入ってからの話になっちゃうので、今回の趣旨とは違うんだけど。中学時代は、完全に限られたところで、『ミュージック・ライフ』とテレビとラジオだけで過ごしていたから、その違いは大きいよ。あと、ロック喫茶ね。高校に入ってからちょこちょこ行くようになってましたね。

宮治: エア・メールでしか買えないような輸入盤が置いてあったわけですよね。

萩原: そうそう。ロック喫茶は我々にとって、いわゆる試聴機の役割をしていたんですよ。コーヒー1杯で何時間もいれて、新譜が片面ずつ次々とかかるというね。あと、FM東京で『ミュージック・シャウト』だったかな、それが輸入盤をかけてくれたんですよ。日本で発売されなさそうなアルバムを紹介してくれるんですよ。

宮治: 69年で特筆しなければいけないのは、当時、日本にはまだFMがなかったことなんですよ。FM東京が開局したのは、70年の4月。NHKはもう試験放送をやっていたけど、ほとんどロックをかけなかったから。

萩原: まだAMの全盛時代だよね。ただ、AMに、レコード会社の提供の洋楽番組がたくさんあったよね。日曜の夕方くらいに前田武彦さんがDJをやっていたベストテン番組やあと藤村俊二さんがやっていたポリドールや日本グラモフォンの番組とかね。あと、日曜の朝、亀渕昭信さんがやっていた『ポップスベストテン』。

宮治: その番組から僕の大好きなサイモン&ガーファンクル「The Boxer」を録音したんです。今も覚えていますよ。ラインで録音するっていう方法を知らなかっので四角いマイクで、親父に「シーッ」っていいながらラジオを録音したのね(笑)。それがまさに、亀さんのやっていた日曜の朝、8時30分からの『ポップスベストテン』。

萩原: で、9時半からロイ・ジェームスの『歌謡ポップベストテン』。日曜日はそれをずっと聴くというね。当時、各局にベストテン番組があるので、そのランキングをノートにつけて集計して、自分用のベストテンを作ってましたね(笑)。まあ69年はそんなもんかな。

宮治: 我々は同い年なんだけど、中2だとそこが限界だね。3歳ぐらい上だと随分違うんですけど。

萩原: ただ、数年後に高校や大学くらいになると多少お金が使えるようになるから、遡って買えばよかったんだよね。

宮治: 東京の大学に行って何が良かったっていうと、中古レコード屋に毎日行けることだったよね。だって自分の住んでいる町にないわけですよ。学校に行くのが楽しくて楽しくて、学校に行ってるんじゃないんだけどね(笑)。

萩原: で、やはり、共通でそういう音楽を聴いている仲間がいないとレベルアップしないじゃない。例えば、僕は大学生になるまでコテリオンなんていうレーベル名を口にしたこともなかったと思うのね。知ってはいるけど、発音したことはなかった。だって、友だちとそんなこと話すわけないからさ。だけど、こういう人(宮治氏)と出会うと、初めて発音するわけだよ。で、いろんな情報を共有していくことによってお互いにスキルアップするんだよね。それってかなり重要なことで、中学、高校の頃ってやっぱり限界があるのよ。洋楽を聴くって人はたまにいるんだけど、皆少しずつ聴くみたいな感じだから。ゾンビーズの話をするならこいつだとか、アーチーズだったら彼かな、モンキーズならこいつだなくらいの分け方。自分の中での幅みたいなものを分かち合える人っていうのはなかなかいないから。やっぱり大学にならないとなかなかそこまではね。

宮治: 高校のクラスっていうのは各人の趣味でクラス分けしているわけじゃないからね(笑)。地理的にも狭い範囲での学生の集まりだし。その点、大学って、一応日本中から来ているじゃないですか。いろんな人がいるなって。高校時代はほとんど思わなかったけど、大学入ってから実感しましたよね。

萩原: リトル・フィートを知っている人もいなかったわけで、その当時、日本ではリリースされてなかったからね。で、4枚目『Feats Don't Fail Me Now』が日本で初めてリリースされたんだけど、3rdの『Dixie Chicken』はリアルタイムでは出てないんだよね。だから70年代になり、個人的には大学に入って、ようやくなんとなく手探りだったものが徐々に情報も集まってきて、輸入盤も値段が下がってきて、買えるようになってきたっていう。だから、69年って、そこに至る前の段階だよね。

宮治: 前夜だよ。だから、69年の日本って、ロックやポップスがすごく盛り上がってるのに、まったくシステムとして追いついてないのよ。

萩原: そういえば、今でも忘れないけど、『ミュージック・ライフ』で当時、レコードの通販をやってたんだよね。国内盤は別にいいんだけど、輸入盤が買えるのがよかったんだよ。CCRも、日本では2ndはリリースされたんだけど、1stはまだ出ていなかったんだよね。だからその1stを買いたくて申し込んで買ったりとか。比較的安く買えたんですよ。で、これって今とまったく同じような状況だなぁと(笑)。毎日、アマゾンに起こされるっていう生活(笑)。宅急便の人もよく知っているんで、12時くらいになると「アマゾンさんからでーす」って(笑)。

宮治: だから、当時って、本当に積極的にコミットしていかないと、現地の状況とかまったくわからなかったよね。

萩原: そう。今でこそ選別しないとわけがわからなくなるくらいに情報がいっぱいなんだけどね。ところで、『ロック・カーニバル』始まったのって71年だったっけ?

宮治: 71年頭のBBキングが三回目。

萩原: そう、キョードー東京が『ロック・カーニバル』シリーズやりはじめる前までは、めったに来日アーティストってなかったよね?

宮治: まさにそうですよ。キョードーの『ロック・カーニバル』とウドーの『ロック・エクスプロージョン』で、BBキングにジョン・メイオール、グランド・ファンク・レイルロードが来て、シカゴ、ツェッペリン、BS&T、パープル…と続くわけ。

萩原: 日本は71年あたりが、ある種のロックの夜明けなんだよね。それまでは、たまにベンチャーズとかサム・アンド・デイヴとか来るだけだったから。71年以降、僕が見たのは、ジョン・メイオールとBS&T、グランド・ファンクやシカゴとか。だいたい、僕くらいの年齢の熱心な洋楽ファンと話をすると、皆同じコンサートを見てるんです。今みたいにめったに来日がないから。

宮治: ほぼ全員参加していると。

萩原: 選べる状態じゃないし。別にそんなに好きじゃないけど、来るなら行くっていう(笑)。

<後編に続く>

「ポップス」1969年4月号(音楽之友社刊)
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「ポップス」1969年11月号(音楽之友社刊)
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「ヤング・ミュージック」1969年4月号(集英社刊)
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「ヒットポップス」1969年7月号(学習研究社刊)
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